知ったかぶりが招く破談のリスク ~知らないことは恥ずかしい!?~
はじめに
M&Aの交渉の場では、売り手にとって、自身の会社を評価され、未来を託す重要な局面です。
特に経営者は多くの場合、「自社をより良く見せたい」と同時に「無能な経営者だと思われたくない」という心理が働くものです。
しかし、この「見栄」や「プライド」が、時に交渉を破綻させる原因となることがあります。
M&Aのプロセスにおいて重視されるべきは、企業価値を正しく評価するための「透明性」と「信頼関係」です。
特に株式譲渡は、会社の経営権の全てを譲り渡すため、買い手は対象企業のあらゆる側面をデューデリジェンス(買収監査)において徹底的に調査します。
この調査の過程で、売り手側から提供された情報と実際の状況に乖離があることが判明した場合、買い手は売り手に対する不信感を募らせ、最悪の場合、交渉が破断となることになります。
自身の能力を過度に誇張したり、知りもしないことを知ったかぶって適当な回答をしたりすることは、短期的な自己満足に過ぎず、やがて自身の、さらには会社の首を絞める行為に他なりません。
M&Aの成功の鍵は、現状をありのままに伝え、専門家の助言を素直に受け入れる謙虚な姿勢にあると言えるでしょう。
「これ以上無理」A旅館の事例
地方で長年親しまれてきた老舗旅館「A旅館」は、かつては観光客で賑わい、売り上げも上々でした。
しかし、時代とともにその輝きは失われつつあり、先代オーナーが亡くなり、職を引き継いだ新オーナー社長は経営に不慣れな若手でした。
特に、設備の老朽化による修繕費の急増が深刻な問題です。
建物の規模が大きければ大きいほど、修繕費用はばかにならず、最悪の場合、修繕しきれないオーナーが建物を放置して逃げてしまい、そのまま放置され、廃墟化してしまう事例も報告されるほどです。
A社の場合も、建物や設備の故障が頻発し、客室の水回りや内装も時代遅れ感が否めません。
大規模な修繕には億単位の費用が見込まれ、維持費が経営を圧迫していました。
次に、社員の高齢化も深刻でした。
長年旅館を支えてきたベテラン従業員たちは次々と定年を迎え、若手の採用は地方ということもあり非常に困難でした。
さらに、人手不足による業務負担の増大は、残された従業員のモチベーション低下にもつながっていました。
そして、決定的な打撃となったのが、新型コロナウイルスの感染拡大です。
宿泊客の激減、度重なる緊急事態宣言やまん延防止等重点措置による営業自粛要請により、A旅館は銀行借り入れを余儀なくされました。
GoToトラベルキャンペーンのような一時的な追い風もありましたが、根本的な経営改善には至らず、資金繰りは限界に達していました。
オーナー社長は、先代から受け継いだ旅館と、長年苦楽を共にしてきた従業員たちの雇用を守りたい一心で、様々な経営改善策を模索しました。
それにより、確かに売り上げはみるみる回復して来ました。
このまま順調に売り上げが上がれば・・・と思ったものの、頻繁に報告される不具合の修繕、古い設備の大規模交換、と、疲れ果ててしまい、「もうこれ以上無理」というところまで追い込まれました。
売り上げに設備の修繕費用が追い付かなくなってきたのです。
そこで、M&Aによる株式譲渡という選択肢を検討するに至ったのです。
初めてのM&Aであり、不安と期待が入り混じる中、オーナー社長はM&A仲介業者を通じて買い手候補とのトップ面談に臨むことになりました。
初めてのM&Aトップ面談 ─ 無能だと思われたくない ─
A旅館のオーナー社長にとって、M&Aは初めての体験です。
日々の業務オペレーションを回すのが精一杯で、経営戦略や財務分析といった専門的な知識はほとんど持ち合わせていないため不安で一杯でした。
一方、買い手候補企業は、業界内で数々のM&Aを成功させてきた経験豊富なベテラン中小企業であり、面談には役員・部長クラス、3名が参加しました。
しかし、面談では、売り手と買い手の知識と経験の差が浮き彫りになったのです。
基本合意前のトップ面談とはいえ、その時間は2時間半にも及び、買い手候補企業からは多岐にわたる質問が浴びせられました。
財務や労務に関する専門的な質問はともかく、日ごろの業務オペレーションや建物の状況、顧客情報といった事案は答えられてしかるべき質問です。
その時、オーナー社長は「無能な経営者と思われたくない」という思いも手伝い、つい適当な回答をしてしまったのです。
買い手質問:「建築検査で建物の問題点を指摘されたことはありますか?」
オーナー社長回答:「特にありません。」
(実際は、毎年受け取っていた建築調査報告書には、建築基準法上の問題点や、設備の老朽化による多数の指摘事項が記載されていました。しかし、オーナーは検査後に送られてくる詳細な報告書をほとんど読んでおらず、行政からは口頭の指摘はなかったため、「問題ない」と答えてしまいました。)
買い手質問:「顧客名簿の数はどのくらいですか?」
オーナー社長回答:「1万件ほどですね。」
(顧客名簿数など考えたこともなく、想像で答えてしまいました。実際には、データ化されたものだけでも15万件以上、手書きの台帳なども含めるとさらに多くの顧客情報が存在しました。)
買い手質問:「簿外債務はありますか?」
オーナー社長回答:「特にありません。」
(オーナー社長は「簿外債務」という言葉の意味を正確に理解していませんでした。帳簿に記載されていない債務、例えば解約しても契約満期まで必ず発生するリース代金、退職金積立金の不足分、未払いの残業代などもこれに該当しますが、オーナーは「帳簿はきちんと入力しているので、帳簿に載っていない債務はないだろう」という安易な想像で「ない」と答えてしまいました。
しかし実際には、1千万円以上の申告すべき簿外債務が存在していました。)
買い手質問:「オーナー保証債務はありますか?」
オーナー回答:「ありません。」
(実際は、古くからある膨大な契約書類はほとんど目を通しておらず、リース物品は通常の月額制サブスクリプションであると思っていました。まさか、契約満期まで中途解約できないファイナンスリースであり、先代社長がその保証人になっていたとは夢にも思っていませんでした。)
これらの回答は、たまに笑いも発生するような和やかな面談の中であったことも手伝い、A社オーナー社長は軽い雑談のつもりで回答したものでした。
気を抜いてはいけないのは面談の場だけではありません。
たとえば、移動中や休憩中の雑談であっても、先方はメモをしていたり、細かく記憶している場合もありますから、発言には注意する必要があります。
単なる雑談のつもりでも、「虚偽の回答」とみなされてしまう場合もあります。
デューデリジェンスでの「真実」の発覚と破談
トップ面談を終え、買い手企業はA旅館の買収に向けて前向きな姿勢を示し、次のステップであるデューデリジェンスへと移行しました。
※デューデリジェンスとは、買い手が対象企業の財務状況、法務リスク、事業の実態、税務、人事、ITシステムなど、あらゆる側面を詳細に調査し、潜在的なリスクや問題点を洗い出すプロセスです。
デューデリジェンスでは、会計士、弁護士、不動産鑑定士、社労士、コンサルタントなど、各分野の専門家チームが派遣され、徹底的な調査が行われます。
このデューデリジェンスの段階で、トップ面談におけるA旅館オーナーの発言が、事実と全く異なっていたことが次々と判明しました。
これらの事実は、買い手企業に大きな不信感を与えました。
M&Aは、売り手と買い手の間の信頼関係の上に成り立つものです。
売り手側が正確な情報を提供していたと判断された場合、買い手は「この会社は信用できない」「他にも隠していることがあるのではないか」と疑心暗鬼になります。
たとえそれが悪意によるものではなく、単なる「知ったかぶり」や「無知」によるものであったとしても、買い手にとってはリスクでしかありません。
─ 破談へ ─
デューデリジェンスの早い段階で、買い手企業は売り手への信頼感に不安を感じ、交渉の破談を申し出ました。
A旅館のオーナー社長は、仲介業者を通じてこの事実を告げられ、「経営者として、『知らない』とは言いにくいので、つい想像で回答してしまった。」と弁明したといいます。
デューデリジェンス早期での破談とはいえ、このために買い手側では専門家報酬が発生しており、時間と労力も費やしていました。
売り手側オーナー社長の軽率な行動が、買い手側に損失を与えてしまったのです。
なぜ「知ったかぶり」は致命的なのか?
今回の事例は、M&A交渉において「知ったかぶり」がいかに致命的な結果を招くかを如実に示しています。その理由はいくつかあります。
1. 信頼関係の崩壊
M&Aは、単なるモノの売買ではありません。
株式譲渡や事業譲渡により、企業の未来を託し、新たなパートナーシップを築く行為です。
このプロセスにおいて、最も重要な基盤となるのが「信頼」です。
売り手からの情報が不正確であったり、意図的に隠蔽されていたりすることが判明すれば、即座に信頼を失います。
一度失われた信頼を取り戻すことは極めて困難であり、交渉の継続は不可能になります。
2. デューデリジェンスの目的の喪失
デューデリジェンスは、買い手がリスクを正確に把握し、それに見合った企業価値を評価するための不可欠なプロセスです。
売り手から提供される情報が虚偽であれば、デューデリジェンスの意味がなくなってしまい、買い手は虚偽の情報に基づいて判断を下すことを避け、交渉から撤退せざるを得ません。
3. クロージング後の賠償責任リスク
M&Aの最終契約書には、「表明保証」という条項が盛り込まれます。
※表明保証とは、売り手が契約締結時点およびクロージング時点において、対象会社の特定の事実(財務状況、法的問題、資産の状態など)が真実かつ正確であることを保証するものです。
もし、クロージング後に表明保証の内容と異なる事実が判明した場合、売り手は買い手に対して損害賠償責任を負う可能性があります。
今回の事例のように、簿外債務が発覚したり、建物の重大な欠陥、裁判リスクなどが判明した場合、買い手はそれによって生じた損害の賠償を売り手に請求することができるのです。
万が一、虚偽により譲り受けた会社の運営ができなくなってしまった場合、最悪その賠償額は譲渡価格に匹敵する額になる可能性すらあります。
その負担は、もし、株主が一人ではなく複数いた場合、複数人で負担する場合もあります。
「知らない」という一言を言えなかったがために、M&Aの機会を失い、さらには賠償責任のリスクまで負うことになる。これこそが、「知ったかぶり」の本当の代償なのです。
その場での不明点は、いったん持ち帰り、調べるなどの対処をすることで万事解決するものです。
また、不明なことを聞かれた場合はどう答えるべきか、ファクトチェックの方法なども仲介業者とすり合わせておくことも重要です。
仲介業者にはどんな小さなことでも相談しておくことをお勧めします。
それ以降、このオーナー経営者は知らないことについては即答を避け、調べてから回答するようになりました。
仲介業者からは、「ご自身や会社を必要以上に大きく見せるよりも、本来の姿を見せることが何よりも重要です。」との助言を受け、その後、無事に別の企業とのM&Aを成功させました。
まとめ ~M&A交渉で失敗しないための教訓~
A旅館の事例から、M&A交渉を成功させるために経営者が心得るべき重要な教訓が見えてきます。
教訓1:知らないことは「知らない」と伝える勇気が必要
教訓2:事実確認(ファクトチェック)を徹底する
教訓3:仲介業者とは密に連携する
このことは自社の株式譲渡を成功させるためのみならず、株式を譲渡する株主を損害賠償リスクから守るためでもあります。
知らないことについては一旦持ち帰って調べるなどの対処をする、さらには、難しい事案の場合は遠慮なく仲介業者に相談することで多くの場合解決の道が開けます。
M&Aオールの業界専門コンサルタントの実務経験が豊富です。
買い手様側の質問内容詳細をしっかり確認して面談を進行していきますので、ご安心いただけます。
トップ面談前にはオーナー様との事前すりわあせミーティングを行い、想定質問に対しての回答確認なども実施しますのでM&Aが初めてのオーナー様でもご安心して頂けます。
執筆者 経営支援・WEBコンサル・WEBコンテンツライター 白河 真琴
中小企業の経営のサポートの経験を活かしながらコンテンツライターとして活動中。
自身の会社のM&Aの経験から企業法務やM&A関連の執筆を中心に行っています。
業界特化のM&A 「エム アンド エー オール」